アントニオ ロペス展
アントニオ・ロペス展を観た。大変良い展覧会で感動した。
膨大に長い時間をかけて描かれた絵画群を観て、描写というものの意味について考えさせられた。
数年かがりで描く作品風景の中には途中、姿を変える店や、道や、看板などがあった事だろう。朝日であったり、夏の日差しであったりと様々だが、太陽の光の中に在るマドリードの町並みの色の瑞々しさはそのまま時を閉じ込めているかのように思えた。
遠くから引いて観るとあまり分からないが、よく見ると丹念に形を計測した痕跡が観られたのが面白かった。
かなり精緻に、かつ巧みな工程でしごとを進めているのも観ることができて大変良かったと思う。画家の制作工程が垣間みられ勉強になった。
また、インタビューで素描に関してコメントに大変共感した。画家であり、彫刻家である彼の原点としての「描く」行為についての言及は大変興味深く感じた。
来週は友人と一緒に行く予定になっているのだけれど、こんな風に(空いている)いいコンディションで観られる事は少ないと思うので近くにお住まいの方々にはぜひお勧めしたい。
話は変わって、きょうはこれとは別にある展覧会に作品を観に行った。
わたしは描写至上主義ではないが、その人が明らかに形態的正確さを求めているのにもかかわらず、実際のかたちとして実現されていないことになんだかモヤモヤしてしまった。
像を表現したいのならばきちんと像でも表現するべきだし、たんなる人体で良いのであればマネキンでもいいのだと思う。仮にコンセプトとして優れていたとしても作品への取り組み姿勢の甘さが目立ってしまうように感じてしまう。
デッサンをはじめとした造形表現が不得手であるならばデッサンを頼らない表現を考えたほうがいいのではないか。
ときどき「デッサンってやったほうが良いんですかね?」と聞かれることがある。
(個人的にはやったほうが良いとは思うし自分はデッサン的な要素の鍛錬は一生続けるつもりだけれど)「やるかやらないかはご本人次第ではないでしょうか」と答えるようにしている。
自分の描きたい(つくりたい)表現の中でデッサン的なウエイトが高いのならやらない理由は無いし、逆にデッサンを身につけることで大胆さやモノの見方の個性が失われると感じるならば別の表現を追求すれば良いのだと思う。
その選択は本人が決めていいのだ。
こんかいアントニオロペス展をみても感じたのだが、結局はデッサンは道具ないし手段の一つであって表現の全てではないのだ。しかし表現の中の幅や奥行きを広げてくれる土台には違いない。70歳をはるかに過ぎた老境にあっても、鍛錬を怠らない姿だとか衰えない描写力は素晴らしい。自分は到底及ばないが、年を経ても手を動かす者でありたいと思った。
そんなわけでまた参考書を買ってしまった。
なかなか良い本です。おすすめ!
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